黄金を抱いて翔べ

蒲田のボードゲーム会として名を轟かすミスボド、ゴールデンウイークの2日目に参加したのでそれについて、というか、たったひとつのことについて。

先日のゲームマーケット春で頒布された人狼をテーマにした作品。
非常にややこしく、ここまでややこしくして人狼を遊びたいのか疑問が残る。その疑問を言葉にする意味で日記に書こうと思い至った次第。

1.ゲームの目的
人狼役は自らを隠匿し続けたままゲーム終了で勝利し、残るプレイヤーは人狼を当てることで勝利する。
ゲームとしては二段階構成になっており、これが「箱庭の人狼」の所以となる。

2.ゲーム世界
架空世界が用意されるのだが、以下、その世界の住人を「キャラクター」とし、プレイヤーとは区別して書く。

13人のキャラクターが人狼をプレイしている世界が用意される。ここが非常にややこしい。プレイヤーはこの世界のキャラクター数人を受け持つ。ではあるが、とくに介入することもない。全プレイヤーはこれらのキャラクターに代わって、占いの結果、霊媒師の結果などを元にそのキャラクター中の人狼役を推理する。

ホント普通に人狼。占って、霊媒の結果を見て、投票して、狩人が誰を守るかを秘密裏に決めて、吊って、狼が襲撃して一日が終了。正直、ここでお腹いっぱい。人狼やってるだけじゃん。特に目新しさはない。無理をして挙げるなら、キャラクターだから吊り議論、投票にまったく躊躇がなく純粋推理になったところだろうか(人狼に推理要素、推理ゲーム的側面があるのかと聞かれれば断じて否ではあるが)。

とにかく普通に人狼。これでいいじゃん、とおもってしまうのだが、人狼漬けになったであろう人にはもうこれでは納得できないのだろう。
そして更に屋上屋が続く。

3.人狼ゲーム終了後の世界
説明が前後するが、プレイヤーは事前に役職カードが配られている。人狼1人、狂人1人、ほか一般人の構成。私がプレイしたのは6人村であったのだが、おそらく人が増えても一般人が増えるだけだろう。
このたった一人の人狼がキャラクター世界の人狼に影響を及ぼし、そして、正体を隠蔽し続ければ勝利となる。

のだが。

4.最後に何を用意するべきか
最後のプレイヤー同士の人狼当ての部分に「受け持ちキャラクターが生き残った人は他人のカードを見られる」という意味不明のルールが付けられるため、非常に人狼不利である。キャラクター世界の人狼で大勢殺しておけばいいのだけれど、それならその世界の人狼でも勝利なわけで、その時点でゲーム終了のお知らせも兼ねてしまう。
最後の逆転用のルールなのだろうけど、理解できない部分であった。
同人ゲーム、というか、最近のボードゲーム全般に感じることなんだけれど、平等さを無理に意識し過ぎだろう(個人的にもっとも意識し過ぎなのが「ドラゴンズストーン」)。どこからでも逆転可能というのは、最終問題100万点のクイズゲームと同じで、途中の意味を剥ぎとってしまう。
「箱庭の人狼」も最後の取って付けたような「逆転可能ルール」によって、そのゲーム途中の意味をすべて擲ってしまった。

5.これからの人狼亜流に思うこと
「ワンナイト人狼」とは異なり、ゲームを開発した動機もつかめず、ただ単に面倒くさい、最後だけで決まってしまう、「ぼくのかんがえたおもしろい」人狼をやらされた気分だけが残った。
今の人狼ブーム(?)を見ると、今後単に面倒くさい人狼ゲームが増えていくのも想像できる。人の圧倒的大多数は足し算でしか創造できないからだ。引き算の発想、そのものの本質を削りだす彫刻のような創造というものは凡人の手に余る。
この「箱庭の人狼」はそういった中の一つだろう。こーゆーのは好きな人に響けばいいんじゃないですかね。