Don’t lose your way in your mind.

キルラキル」が終わった。
半年間、毎週毎週がたのしみだった。金曜日に新作がみられることを楽しみに生きていた。誇張ではなく生きていた。来週の放送を見ているとき、自分はどんな気分なのだろうか、と考えてばかりいた。絶対に楽しめる精神状況で居ようと努めた。それくらい、見たいものだったのだ。見終わって、心が静まってから。金曜はもう明け方近く寝ることが多かった。それも愉しかった。
ただ、ただ、見たいものが見られる、期待以上のものが見られるアニメだった。何が見たいのか、なんて答えを持ち合わせていないのに、答えがあふれ出るように見ることができた。それに溺れることができた。
その快感のため、一週間生きた。誇張なしにそう言えた。最後は絶対ハッピーエンドだと信じていた。だから途中も辛くなかった。流子がどれほど辛くても、一人で、いや、仲間と砕いていくさまは私に力をくれた。その場だけの。私は、そういう気持ちを持続させ、自身の生活に生かす能力がないのだ。単に溺れるだけで精いっぱいで、そこを泳ぎ切る、何かを持ち帰るなんてできなかった。

それくらいキルラキルが好きだった。今風に女の子が最強で戦い続ける。子供たちばかりの物語。大人は敵だったり味方だったり格好悪かったり。流子は子供の代表として戦い続けた。大人そっちのけで。そして、ラスト。母親を倒して物語は終わる。父親を殺され、母親を殺す。そうして、姉と妹だけになった世界に帰ってくる。もうどこにも大人はいない。大人になる前の人間たちの集まりだ。いつかはみんな大人になる。でも、どこかに子供を残して大人になるだろう。こんな刺激的な子供時代を過ごしてしまったら、大人の時間はつまらない決まっているから。子供のころ見た、あこがれた、大人はなんてつまらないのだろう。そうやって大人幻想をすてることは青春の終わりで、卒業で、大人になることだ。いつもまにか、あんなに嫌った、大人に、つまらない大人になる。なってしまう。

でも楽しい大人たちが「キルラキル」なんてアニメを作る。作る人を集める。作る予定を考える。計画する。お金を集める。場所を用意する。物語を考える。絵を描く。デザインする。演出を考える。撮影方法を考える。声で演じる。音楽を作る。それを演奏する。紹介文章を書く。いろんな雑誌に記事を書く。宣伝する。商品化の交渉をする。トラックダウンをする。編集をする。どれもこれも大人たちがやっている。仕事だ。大人の仕事だ。こんなに楽しい仕事をやっている。それだけでもう僕には福音だった。僕がこんなにつまらない仕事をすることで、この人たちは、面白いことをしてくれる。それを見せてくれる。そして見終わるとつまらない仕事に戻る。このつまらなさは、面白いものが生まれるのに必要なのだと判ったのだから許容できる。自分にはなにもできることがない。だからこんなつまらないことをしてでも、遠い遠いどこかの国につながっているかもしれない、道にすがる。

面白いは、面白くないを燃やしつくて、面白くなる。面白いは面白くないを徹底的に燃やし尽くさなければならない。そして、おもしろくない国で暮らす人間からの羨望を集めなければならない。おもしろくな仕事の人たちは、やっと自分たちの仕事が面白くないと気付き、あきらめ、絶望し、そして自分を説得する。まず自分に嘘をつく。なによりかわいそうな自分に。

それが私だった。こんなに面白い仕事をしている人たちがいるのに、どうして私はこんなつまらない仕事をしなければならないのか。つまらない大人があつまって、つまらない仕事を、面白くなさそうにこなし、お金以外は何も得るものがなく過ごす。達成感も充足感も、肯定も、認証も。なにも得ることのない仕事を繰り返す。そうやって擦り減っていって、そのうちいろんなものか興味をなくしていく。視界が灰色に染まるころ。僕は「キルラキル」を思い出す。今週もいままで生きていなかったと、呼吸をすることを思い出すのだ。

ありがとう、キルラキル。ありがとう、トリガー。また新しい、オリジナルアニメを楽しみにしています。

そしてハヤカワは「カエアンの聖衣」を早く復刊してください。