SFが生きる

「SAO」でキリトは殺人を悔やみ、「劣等生」で達也は抵抗なく敵を殺す。設定背景があるので単純に比較できない、なんて正論ではなくてラノベ世界で殺人を扱うのはどうしたって難しい。
なので同じく河原礫の「アクセルワールド」を引き合いに出す。とりわけ「アクセル」の登場人物の四埜宮謡、倉崎楓子についてだ。この2人は後天性、先天性に障碍を持つ。謡は喋れず、楓子は脚部形成不良だ。しかし作中の重要アイテム「ニューロリンカー」がそれらを解決している。謡はバーチャルキーボードで意思の疎通をはかり、楓子は義肢をニューロリンカー経由で操作している。「劣等生」世界では技術はできる人間をよりできるようにする道具だが「アクセル」では不足を補う道具としても書かれる。SFだとどうしても悲観的未来が選ばれる物語が多いのだけれど「アクセル」は現在のはるか延長線上ではあるが、そこには理想となる技術が問題を解決した未来が提供される(まぁ、劣等生世界について語るのためには「ウィザーズブレイン」も語るべきだとは常々思ってはいるのだが、両方とも暗い未来の物語だ)。
「SAO」はゲーム世界に死が持ち込まれることで現実の延長線上であること、作品世界を理解するのに現実の延長線上だと補助線を設定すればいいと判る。フルダイブ型バーチャルMMOというのは現在の延長線上の未来としては理想だと思えるから、作品の理解については理想を想定すればいい。「劣等生」だとまぁ、なかなか同意しづらい。脱線するけど魔法という驚異がありながら傘とタイヤが残ってる世界が驚きなんですが。まず傘はなくなっててほしい。もう何千年と人は傘を使っているのだが、不思議とブレイクスルーは発生していないのだから、ここに技術的、サイエンスフィクション的解決を持ち込んでほしい。ちなみにSAOで雨のシーン、あったっけ?
で、話は「SAO」に戻る。「マザーズロザリオ」だ。「マザーズロザリオ」は死の物語だ。そしてSFだ。技術で人が救われる物語だ。殺人を扱うだけじゃない。「ソードアート・オンライン」は「生」が出てくる。単に殺人の扱いだけで両者を比較するのは乱暴だろう。「劣等生」は死を扱うが生は出てこない。この一点を並べるだけでも「SAO」と「劣等生」の厚みの違いが判るだろう。
ほか、前述のとおり「アクセルワールド」では技術が人を救う。佐島の「ドウルマスターズ」でも技術は戦争の道具であり、人殺しのためだけに存在する。作家性ではあるのだろうが、どこか世界への「愛」を感じる河原礫と登場人物への「愛」で立ち止まっている佐島勤とでは厚みが違うのだと気付かされるのだ。